逆襲のシャア 個人的解説 その9 最終回




全9回でお送りしました 逆襲のシャア 個人的解説。
今回で最終回になります。



前回でシャアとアムロのMS戦での最後まで伝えましたが、物語はMSを失ったシャアと落下するアクシズを止める為にνガンダム1機で抵抗するアムロとの会話でのやり取りが中心になり、エンディングへと向かっていきます。

サザビーが大破しオートマチックでコクピットポッドが放出されます。

それをつかんだアムロは地球へ落下するアクシズを止める為シャアを道連れにアクシズの先端に取り付きます。

サイコフレームの効果なのか、敵味方関係なくガンダムの周りにMSが集まりアクシズを押し戻す為にバーニアを噴かせます。

爆発したり吹き飛ばされたりしながらも。

この光景にアムロは自分の自殺行為に巻き込んでしまっている事を感じて
「もういいんだ、みんなやめてくれ!」という言葉を叫びます。


シャアは外で何が起こっているのかは見えませんが、サイコフレームを通して”優しさ”を感じます。

そしてその ”優しさ”がやがて地球を滅ぼすと言い出します。

そこで彼等は怒鳴り合いにも近い口論を繰り広げます。

今回の地球寒冷化作戦の事、戦場に巻き込んだニュータイプ少女クエスの事、人類の行く末、地球のあり方の事。

お互いに向かうべき理想は同じなのに解り合う事が出来ず、シャアはこんな苦悩にも似た言葉を言います。

「何でこれが解らん、アムロ」


このあたりで、シャアがガンダムシリーズ3回目の涙を見せます。

1回目は1年戦争でララアが戦死した時。
2回目はZガンダムでカミーユに自分の不甲斐無さを指摘され殴られた時。
そして今回です。


その涙にかぶるようにシャアは感情的な言葉を吐き出します。

「ララアは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!そのララアを殺したお前に言えた事か!」

アムロ「?お母さん?うわ!」


・・・・・・



アムロは突然のシャアの本音、子供のようなむき出しの感情に戸惑いをみせた表情でこのガンダムを象徴する人物2人の会話は終わります。


もちろんその後どうなったのか?生死は?など明確にされないままアクシズは軌道を変え、地球には落下せずにエンディングロールへと繋がっていきます。


結局シャアとアムロはお互いを理解する事も、相手の気持ちに賛同する事もなく、最後は1年戦争で戦死した少女ララアの事を言い合い、どちらが殺した責任があるか、などくだらない会話で締めくくられるこのラストシーンのやり取りには、どんな意味があるのでしょうか?


そこには、時代をも動かせる男になったシャア・アズナブルという人物も、ヒーローとして祭り上げられた最強のパイロット、アムロ・レイも所詮は人間であり、こんな状況下でもお互いに何年も前に恋をした女性の話で責任のなすり合いをし、死んだ女性の気持ちを所有しようとする・・

そんな世俗的な感情をぶつけ合うという、普通の人間であるという意味を感じます。

SFロボットアニメでありながら世の中は男と女、金と権力、善意と悪意で成り立っている、今現在と何も変わらない世界がそこにあります。

冨野監督はこの作品でニュータイプをどういう位置づけにしたのでしょうか?

おそらく、
ガンダム世界の言うニュータイプ世界は来ない。
人間は言葉や行動でコミュニケーションをし、恋をし、喧嘩をし、少しずつ相手を理解していくものだ

という事を言いたかったのではないでしょうか?

もちろんテレパシー的なもので100%気持ちが伝わる事は素晴らしいとも思っているはずです、が、必ずしもニュータイプ的な世の中が正解ではない と
そう私には伝わってきました。

これは劇中でハサウェイが父ブライトの事を「親父いつもうるさいけどな」と言う台詞や
ブライトが密航したハサウェイを容赦なく殴りつけるところにも現れています。


宇宙と地球でほとんど会えない家族が、たまの休暇などで一緒に過ごす時間を大切にし、そこには確実に親子のコミュニケーションが存在したはずです。

だからこそめったに会わない父を尊敬し、めったに会わない息子を殴れるんだと思います。
それと相反するクエス・パラヤは親子で一緒に生活しながらも、親子のコミュニケーションがとれなかった、ニュータイプでありながら、です。

そして美しい音楽と共にエンディングロールが始まります。

アフリカゾウの姿
ベッドに横たわりカーテンの隙間から空を見る老女
最後に地球の何処かで子供が生まれる産声

画面には今までの登場人物で終わります。

その後は永遠とTM NETWORKの主題歌が終わるまで光の輪に包まれた地球が映し出されています。



このラストから何を感じるでしょうか?

宇宙では戦争で沢山の命が塵となり、地球存亡に関わる事が起きています。
それがガンダムの表です。

しかし裏では何の関係もなく、話に登場しない人物がいて、野生動物が生活し、人は歳をとり、そして死んでいく。
しかし確実に新しく生まれる命がそこにはあり、時代は続いていく。

そういった意味が込められていると感じます。


この逆襲のシャアという作品は、最後に起こる”奇跡”で締めくくられるという描写で終わっています。


この奇跡終わりに監督は何を込めたのでしょうか?

おそらくサイコフレームが原因である事は間違いないのですが、その前に人間の意志、「こうしたい」という気持ちが無ければ何も起こらない、気持ちがあれば行動を起こせ、もしかしたら奇跡をも起こせるかもしれない。

まず想像する事、思う事が始まりなんだ。

そういった表現の極端にしたものだと私は感じました。



この作品は30代になった今見るのと、10代が見るのとでは大きく印象が異なる、そんな深い作品です。

少年の頃には解らなかった大人の社会のしがらみや、利権争い、恋愛に対する気持ち、社会への理解など、色々な要素がふんだんに含まれています。

40代、50代になったときにはどういう風に映るのか楽しみでもあります。


最後にガンダムという作品について雑誌や解説本などでうんちくや「こう理解すべき」的な表現が多くありますが、あくまで自分の人生や価値観でそれぞれに楽しむのが本来の楽しみ方だと思っています。

それは、今まで30年近くも人々に愛され続ける理由だと思うからです。

私は本当にガンダムに出会えて良かったと思っています。




おわり









0 件のコメント :

コメントを投稿